“覚り(さとり)” についてのあるひとつの考察[2]
Remind ・・・ ・・・。
ゴータマ・ブッダの“覚り”を考える上では、
①生きることは苦、②死んでも生まれ変わり、苦しみは続く(輪廻転生)
を前提に考える必要がある。
出家をした後のゴータマ・シッダールタは、“生きることの苦しみ” から救われる
ために難行苦行に挑みます。
しかし難行苦行を続けても「救われることはない」 と結論付け、菩提樹の下で瞑想を
行ない、ついに“覚り”に達したのでした。
人類史上初めてのブッダ(仏陀)=目覚めた人の誕生です。 (めでたしめでたしw オイッ!
ここまでのポイントは
「難行苦行では、覚れません!」と言うことと
「 瞑想によって覚ることが出来ました」 と言うことです。
逆に言うと “覚る” ためには瞑想が必要と言うことです。
しかし、ホントに注目したい事は、≪梵天勧請≫にある 覚った後のゴータマ・ブッダの行動
もしくは心の葛藤です。(覚った後に心の葛藤??? ちょっと矛盾を感じますw
※梵天勧請詳細は、wikiって下さい。
ゴータマ・ブッダ
「そう言うこと? そういうことだったのね。 いやー、覚っちゃったよ、 覚っちゃった。
んっ?ちょっと待てよ覚ってみたのは良いけれど、これって覚ったオレ以外に理解できる
ヤツっているのかな? まっ いっか 覚った事は、胸の中に大事にしまっておこうw」
梵天
「あれ?ゴータマさん! 今、覚りましたよね? 真理に気付きましたよね?
もしかして、覚りについて誰にも教えないで 内緒にしちゃうつもり ・・・ ・・・?」
ゴータマ・ブッタ
「あっ!びっくりしたっ 急に出て来て 脅かさないで下さいよ 梵天さん。
ええっ 覚りましたよ、確かに覚りました、でも、これって教えて解るものじゃないし
とてもじゃないけど 他の人には理解出来ないと思いますよ。」
梵天
「いやいや、そこを何とか ・・・ ・・・。折角、覚ったんだから、皆さんに教えて上げて下さいよ」
ゴータマ・ブッダ
「そう言われてもね、少し考えさせて下さい ・・・ ・・・。」
※このやり取りは、あくまでフィクションです。 (わかってますw
ゴータマ・ブッタは覚った後に≪迷った≫んです。
覚りについて、自分以外の誰かに教える(伝える)ことを
仏陀=目覚めた人 が迷うと言う矛盾。(ここが面白いw
この梵天勧請に記されたゴータマ・ブッダの “迷い” はなんだったのか?
“覚り” とは、迷いさえも生じない崇高な心理状態かと思っていたんですが
どうも違うような ・・・ ・・・。
では “覚り” とは、“覚りの境地”とは、一体どんな心の到達点なのでしょうか?
ここでもう一度、“覚り”を goo辞書で確認してみましょう (goo辞典好きだなw
さとり【悟り/覚り】1物事の真の意味を知ること。理解。また、感づくこと。
“覚り”とは、ゴータマ・ブッダが瞑想により到達した≪何かを超越した心理状態≫ではなく
単に “意味を知った” または “理解”した ということではないかと思います。
では、ゴータマ・ブッダは、瞑想により 何を知ったのか?理解したのか?
それはゴータマ・ブッタが、出家してまで救いを求めた “生きる苦しみ”(四苦八苦)に対する
仏教的なある種の答えなのではないかと思うのです。
この続きは、また次回と言うことで ・・・ ・・・。 (引っ張るねw
ゴータマ・ブッダの“覚り”を考える上では、
①生きることは苦、②死んでも生まれ変わり、苦しみは続く(輪廻転生)
を前提に考える必要がある。
出家をした後のゴータマ・シッダールタは、“生きることの苦しみ” から救われる
ために難行苦行に挑みます。
しかし難行苦行を続けても「救われることはない」 と結論付け、菩提樹の下で瞑想を
行ない、ついに“覚り”に達したのでした。
人類史上初めてのブッダ(仏陀)=目覚めた人の誕生です。 (めでたしめでたしw オイッ!
ここまでのポイントは
「難行苦行では、覚れません!」と言うことと
「 瞑想によって覚ることが出来ました」 と言うことです。
逆に言うと “覚る” ためには瞑想が必要と言うことです。
しかし、ホントに注目したい事は、≪梵天勧請≫にある 覚った後のゴータマ・ブッダの行動
もしくは心の葛藤です。(覚った後に心の葛藤??? ちょっと矛盾を感じますw
※梵天勧請詳細は、wikiって下さい。
ゴータマ・ブッダ
「そう言うこと? そういうことだったのね。 いやー、覚っちゃったよ、 覚っちゃった。
んっ?ちょっと待てよ覚ってみたのは良いけれど、これって覚ったオレ以外に理解できる
ヤツっているのかな? まっ いっか 覚った事は、胸の中に大事にしまっておこうw」
梵天
「あれ?ゴータマさん! 今、覚りましたよね? 真理に気付きましたよね?
もしかして、覚りについて誰にも教えないで 内緒にしちゃうつもり ・・・ ・・・?」
ゴータマ・ブッタ
「あっ!びっくりしたっ 急に出て来て 脅かさないで下さいよ 梵天さん。
ええっ 覚りましたよ、確かに覚りました、でも、これって教えて解るものじゃないし
とてもじゃないけど 他の人には理解出来ないと思いますよ。」
梵天
「いやいや、そこを何とか ・・・ ・・・。折角、覚ったんだから、皆さんに教えて上げて下さいよ」
ゴータマ・ブッダ
「そう言われてもね、少し考えさせて下さい ・・・ ・・・。」
※このやり取りは、あくまでフィクションです。 (わかってますw
ゴータマ・ブッタは覚った後に≪迷った≫んです。
覚りについて、自分以外の誰かに教える(伝える)ことを
仏陀=目覚めた人 が迷うと言う矛盾。(ここが面白いw
この梵天勧請に記されたゴータマ・ブッダの “迷い” はなんだったのか?
“覚り” とは、迷いさえも生じない崇高な心理状態かと思っていたんですが
どうも違うような ・・・ ・・・。
では “覚り” とは、“覚りの境地”とは、一体どんな心の到達点なのでしょうか?
ここでもう一度、“覚り”を goo辞書で確認してみましょう (goo辞典好きだなw
さとり【悟り/覚り】1物事の真の意味を知ること。理解。また、感づくこと。
“覚り”とは、ゴータマ・ブッダが瞑想により到達した≪何かを超越した心理状態≫ではなく
単に “意味を知った” または “理解”した ということではないかと思います。
では、ゴータマ・ブッダは、瞑想により 何を知ったのか?理解したのか?
それはゴータマ・ブッタが、出家してまで救いを求めた “生きる苦しみ”(四苦八苦)に対する
仏教的なある種の答えなのではないかと思うのです。
この続きは、また次回と言うことで ・・・ ・・・。 (引っ張るねw