“覚り(さとり)” についてのあるひとつの考察[3]
Remind ・・・ ・・・。
[1]
ゴータマ・ブッダの“覚り”を考える上では、
①生きることは苦、②死んでも生まれ変わり、苦しみは続く(輪廻転生)
を前提に考える必要がある。
[2]
①ゴータマ・ブッタは覚った後に≪迷った≫。 仏陀=目覚めた人が迷う矛盾
②“覚り”とはゴータマ・ブッタが到達した何かを超越した心理状態ではない
③ゴータマ・ブッタが覚った(理解した)ことは“生きる苦しみ”に対する仏教的な答え
ゴータマ・ブッタは、梵天勧請の後、教えについて 説いて回ります。
ここから仏教(仏陀の教え)が始まったと言えるのではないでしょうか?
ではゴータマ・ブッダは、どんな教えを説いて回ったのでしょう?
実はここで大きな問題にぶち当たります。
ゴータマ・ブッタが仏弟子たちに 何を教え、何を説いて回ったのか? を
正確に記録した文献は、ないのです。(えーーーっマジで?
「いやいや、ちゃんと多くの経典が残っているじゃないっ!」 との声も
聞こえてきそうですが (んっ? まったく反応なしw
仏教経典は、ゴータマ・ブッタの言葉が比較的正確に書かれている? だろうと
言われている≪アーガマ(阿含経)≫や≪スッタニパータ(経集)≫でも
ゴータマ・ブッタの入滅後(数十年~数百年後)に仏弟子が集まり
仏弟子A
「そう言えば、尊師さま(ゴータマ・ブッダ)は、〇〇での説法の時にこんなことを
言っていたと思うよ」
仏弟子B
「あっ それならオレも聞いたことある」
仏弟子C
「ほんと? それじゃ経典の残しておこう」 とか
仏弟子A
「〇〇の時の説法で、尊師さまが こんなことを言っていたと 聞いたことあるよ」
仏弟子B
「えーっ その話は、初耳だなぁ オレは、聞いたことないぞ」
仏弟子C
「その話は、ちょっと怪しいな 経典には載せないでおこう」 とか
初期仏教の経典においても 仏弟子が、聞いた話を後から集めて編さんしたもの
であり、直接ゴータマ・ブッダの言葉を記録したものはありません。(なるほどw
ちなみに仏教はゴータマ・ブッダ入滅後、数百年が経ち根本分裂が起き
スリランカやタイ、ミャンマー等に伝わった 上座部仏教(南伝仏教)と
唐(現在の中国)や朝鮮半島を経由し日本に伝わった大乗仏教(北伝仏教)に
分かれます。
大乗仏教の経典は、後世の創作が多く(と言われている)、大乗非仏説の根拠と
なっています。
大乗非仏説については、またの機会に長々と綴ってみたいと思います。(またやるのw
話しは戻って、 覚りを開いたゴータマ・ブッタが、何を教えたのかが確定出来ない今、
現在の仏教学者の意見を大まか取りまとめますと (大まかw
十二縁起、諸行無常、諸法無我、等々は、仏陀の言葉として説かれたのではないか
と言われています。それぞれの説明は難しいので省きますが (そこ説明せんのかい!w
“覚り(さとり)”についてのあるひとつの考察 の結論(仮説)は、ゴータマ・ブッダの覚りとは
≪輪廻転生の否定≫ではないかと思います。 (ここまで長かったなw
この世に永遠はなく、過去もなく、未来もなく、ただ、今があるだけ
運命のようなものにより、未来が既に決まっていると言うことはなく
この世の行い(業)が次に生まれ変わる世界を決めるようなこともなく
この世(生)への執着(煩悩を滅し)をも手放せば、生老病死や生まれ変わり
続けることへの恐れもなく ≪輪廻転生≫に拘る(執着する)ことさえ必要ないと
“覚った”のではないかと考えるわけです。
つまり≪輪廻転生の否定≫ (なんの根拠もありませんがw
ゴータマ・ブッダは、生まれ変わり(輪廻転生)を否定した訳ですから、
生まれ変わった後も 生の苦しみが続くと考える訳もなく輪廻から解脱したと
言うことではないかと考えるのです。
仏陀=目覚めた人の≪迷い≫の正体は、輪廻転生が社会の基盤思想にある中で
≪輪廻転生の否定≫を他者に伝えることは難しいと考えたのではないでしょうか?
あたかも天動説が当たり前だった時代に「動いているのは、この大地の方だよ」と
地動説を説いた コペルニクス のように ・・・ ・・・。(Paradigm shift
長々と 稚拙な文章を綴ってしまい、お恥ずかしい限りです。
ここに記した内容は、あくまで個人的な考えであり、既存の思想や宗教観を否定、
批判するものではありません。
[1]
ゴータマ・ブッダの“覚り”を考える上では、
①生きることは苦、②死んでも生まれ変わり、苦しみは続く(輪廻転生)
を前提に考える必要がある。
[2]
①ゴータマ・ブッタは覚った後に≪迷った≫。 仏陀=目覚めた人が迷う矛盾
②“覚り”とはゴータマ・ブッタが到達した何かを超越した心理状態ではない
③ゴータマ・ブッタが覚った(理解した)ことは“生きる苦しみ”に対する仏教的な答え
ゴータマ・ブッタは、梵天勧請の後、教えについて 説いて回ります。
ここから仏教(仏陀の教え)が始まったと言えるのではないでしょうか?
ではゴータマ・ブッダは、どんな教えを説いて回ったのでしょう?
実はここで大きな問題にぶち当たります。
ゴータマ・ブッタが仏弟子たちに 何を教え、何を説いて回ったのか? を
正確に記録した文献は、ないのです。(えーーーっマジで?
「いやいや、ちゃんと多くの経典が残っているじゃないっ!」 との声も
聞こえてきそうですが (んっ? まったく反応なしw
仏教経典は、ゴータマ・ブッタの言葉が比較的正確に書かれている? だろうと
言われている≪アーガマ(阿含経)≫や≪スッタニパータ(経集)≫でも
ゴータマ・ブッタの入滅後(数十年~数百年後)に仏弟子が集まり
仏弟子A
「そう言えば、尊師さま(ゴータマ・ブッダ)は、〇〇での説法の時にこんなことを
言っていたと思うよ」
仏弟子B
「あっ それならオレも聞いたことある」
仏弟子C
「ほんと? それじゃ経典の残しておこう」 とか
仏弟子A
「〇〇の時の説法で、尊師さまが こんなことを言っていたと 聞いたことあるよ」
仏弟子B
「えーっ その話は、初耳だなぁ オレは、聞いたことないぞ」
仏弟子C
「その話は、ちょっと怪しいな 経典には載せないでおこう」 とか
初期仏教の経典においても 仏弟子が、聞いた話を後から集めて編さんしたもの
であり、直接ゴータマ・ブッダの言葉を記録したものはありません。(なるほどw
ちなみに仏教はゴータマ・ブッダ入滅後、数百年が経ち根本分裂が起き
スリランカやタイ、ミャンマー等に伝わった 上座部仏教(南伝仏教)と
唐(現在の中国)や朝鮮半島を経由し日本に伝わった大乗仏教(北伝仏教)に
分かれます。
大乗仏教の経典は、後世の創作が多く(と言われている)、大乗非仏説の根拠と
なっています。
大乗非仏説については、またの機会に長々と綴ってみたいと思います。(またやるのw
話しは戻って、 覚りを開いたゴータマ・ブッタが、何を教えたのかが確定出来ない今、
現在の仏教学者の意見を大まか取りまとめますと (大まかw
十二縁起、諸行無常、諸法無我、等々は、仏陀の言葉として説かれたのではないか
と言われています。それぞれの説明は難しいので省きますが (そこ説明せんのかい!w
“覚り(さとり)”についてのあるひとつの考察 の結論(仮説)は、ゴータマ・ブッダの覚りとは
≪輪廻転生の否定≫ではないかと思います。 (ここまで長かったなw
この世に永遠はなく、過去もなく、未来もなく、ただ、今があるだけ
運命のようなものにより、未来が既に決まっていると言うことはなく
この世の行い(業)が次に生まれ変わる世界を決めるようなこともなく
この世(生)への執着(煩悩を滅し)をも手放せば、生老病死や生まれ変わり
続けることへの恐れもなく ≪輪廻転生≫に拘る(執着する)ことさえ必要ないと
“覚った”のではないかと考えるわけです。
つまり≪輪廻転生の否定≫ (なんの根拠もありませんがw
ゴータマ・ブッダは、生まれ変わり(輪廻転生)を否定した訳ですから、
生まれ変わった後も 生の苦しみが続くと考える訳もなく輪廻から解脱したと
言うことではないかと考えるのです。
仏陀=目覚めた人の≪迷い≫の正体は、輪廻転生が社会の基盤思想にある中で
≪輪廻転生の否定≫を他者に伝えることは難しいと考えたのではないでしょうか?
あたかも天動説が当たり前だった時代に「動いているのは、この大地の方だよ」と
地動説を説いた コペルニクス のように ・・・ ・・・。(Paradigm shift
長々と 稚拙な文章を綴ってしまい、お恥ずかしい限りです。
ここに記した内容は、あくまで個人的な考えであり、既存の思想や宗教観を否定、
批判するものではありません。
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